インドの金融決済サービスでトップシェアを誇る日立製作所の子会社、日立ペイメントサービス。
2019年、同社はインド最大の国営商業銀行「インドステイト銀行(SBI)」との合弁会社設立を機に、デジタル決済の普及を加速させるプロジェクトを始動させます。
しかし、当初は「日本の技術」への過度な期待や、日本流のシステム開発の世界では当たり前の「要件定義」とインド流の「スピード感」という文化的なギャップに阻まれ、プロジェクトは困難に直面していました。
突破口となったのは、書籍『アフターデジタル』との出会いでした。
日立製作所の松本氏は、当時のことを「単なる技術の押し売りではなく、現地のタバコ屋や雑貨屋といった加盟店の業務・運用に寄り添う『加盟店ジャーニー』を描き出したことで、現場の課題を解決する『現金デリバリー』などの革新的なサービスを生み出せました。リアルとデジタルを融合させたこの体験設計こそが、日立がインドの地で見出したイノベーションの本質でした。」と振り返ります。
本記事では、株式会社日立製作所 デジタルシステム&サービス営業統括本部 社会プラットフォーム営業統括本部長の 松本直彦氏(25年3月まで同社金融システム営業統括本部に所属し、インド駐在)と、株式会社ビービット COO 藤井保文による、真のユーザ志向を追求したグローバルDXの軌跡を辿る対談をお届けします。
日本の「構想力」と、インドの「実装力」や「ジュガード(あるもので工夫する)精神」を融合させ、真のユーザ志向を追求したグローバルDXの軌跡とは。
インドにおける金融決済サービス事業の変遷
日立製作所は2014年に現地の決済サービスベンチャーを買収し、インドで金融決済サービス事業を手がける日立ペイメントサービスとして子会社化しました。同社はインド国内で銀行ATMの運用・保守および自社ブランドATMの展開を行い、銀行ATM管理市場ではトップシェア(約28%)を誇ります。
インドの大都市近郊エリアでは次第にキャッシュレス化が進展しましたが、それ以外のエリアでは現金利用率が80%以上と高い状況が続いていました。しかし、今後のキャッシュレス化のさらなる進展を見据え、2010年に日立ペイメントサービスはデジタルビジネスの拡大をめざし、POS事業(※)を開始します。
しかし、参入後、デジタル決済市場が伸長したほどには事業が飛躍せず、苦戦が続きました。
※ 店舗にPOS端末(決済端末)を導入・運用し、カード等によるキャッシュレス決済を処理する金融サービス
インド最大の国営商業銀行SBIとの提携と、コロナ禍による遠隔支援
2019年、大きなチャンスが訪れます。
インドステイト銀行(SBI)が、カード決済の普及を加速させるため、技術力のあるテックカンパニーとの合弁会社設立を計画したのです。
SBIはインド最大の国営商業銀行であることから、多くの国民がSBIのデビット機能付きキャッシュカードを持っています。
このプロジェクトに名乗りを挙げ、採択されたのが日立ペイメントサービスで、同社は、SBIとともに合弁会社「SBIペイメントサービス」を立ち上げ、日立の技術を惜しみなく提供する体制を整えました。
プロジェクトをさらに加速させるべく、当時、金融システム営業統括本部に所属していた松本氏には2020年4月にインド駐在の辞令が出ました。しかし、コロナ禍により足止めを余儀なくされます。約2年間、日本の自宅からインド人メンバーとリモート会議を繰り返す日々が続く中で、文化の違いによるコミュニケーションの葛藤が浮き彫りになっていきました。
立ちはだかる「3つのカルチャーギャップ」と、日本の技術への誤解
――松本氏は、現地のインド人経営者たちと話す中で、次第に3つのギャップがあることに気づきました。「ビジネススタイル」「納期」「価格」です。
松本氏:インド人からすると、日本は超デジタル大国だと思っていたらしいのです。デジタル決済、デジタルソリューション、AIなどのデジタルの技術力が余るほどある国だと。
ですが、我々の持っているあらゆる技術を提案しても、インド人は「いらない、いらない」を繰り返すばかり。次第にインド人たちが不満を感じ始めていくのがわかりました。
そこで「ちょっと要件を聞いてから……」と言ったら、最初の壁がはっきりしました。現地法人のインド人社長からこう言われたのです。
「マツモト、要件を聞いて、それに合わせて物を作っていく文化なんてインドにはない。そこを勘違いしてないか?」と。
――日本では、お客様の要件を聞かずに製品を持っていくことはまずありません。
ところがインドでは「とにかくReadyで、利便性があるものを全部並べて見せてほしい」という感覚の違いがあることがわかりました。
松本氏は、当時その商習慣の違いに驚いたことを笑顔で振り返ります。
もし、日本流のシステム開発で言うならば、お客様の要件を聞いて作るとしても、テスト工程も入れて開発期間は1年〜1年半くらいはかかります。
そのやり方では、時間がかかる上に価格も見合わない、と現地のインド人メンバーが心底驚いた、といいます。
松本氏:「日本はデジタル先進国」という誤解と、「ビジネススタイル」「納期」「価格」というこの3つのギャップに阻まれました。「果たしてこのプロジェクトを、私は本当に成し遂げられるのだろうか......」と、先行きが不安で真っ暗な気持ちがしました。
窮地を救った『アフターデジタル』との出会い、そして「UX」への視点転換
――行き詰まっていた時、松本氏は書店で偶然『アフターデジタル』と出会います。
松本氏:日々、現地からデジタル、デジタルをと迫られ、本当に頭を悩ませていました。そんな時、タイトルに惹かれて『アフターデジタル』を手に取って読んだら、止まらないのですよ。「私が言いたいことが全部書いてある!」って。もうハマりにハマりました。
すぐにオンラインで日本人メンバーを招集しましたね。
「すごい本を見つけた!現地のインドのお客様は、何に困っていて、何がボトルネックになっているかが、全てわかるよ。僕らは、やってはいけないことを全部やっていたようだ」と。
『アフターデジタル』は、当時悶々としていた私に、神様がくれた本だったのです。
――『アフターデジタル』をもとにチームで議論していくと、今までのアプローチが成功とは真逆に向かっていたことに松本氏は気づきました。
松本氏:デジタルはデジタルを売るためにあるのではなく、著者が言うように、お客様のビジネスやUX(ユーザ体験)を変えるためにあるのだと気づきました。
それなのに私たちはUXを置き去りにして、「インド人が欲しいのはAIかな? ブロックチェーンかな?」と、技術の言葉ばかり並べていたのですね。
インドに赴任する前にこの本に出会えたことは、本当に奇跡でした。
現地入り後の違和感を突破した、半年間の徹底的な「ユーザ理解」
――松本氏は、『アフターデジタル』を携え、2022年4月にようやく現地入りします。
しかし、すぐに状況が好転するわけではありませんでした。
対面で話せば通じるという単純な状況ではなく、「互いの間に何か、奥歯に挟まっているような、何かがズレている、という違和感を持ちました」と松本氏は話します。
松本氏は現地入り後、『アフターデジタル』を参考に、時間をかけて現地のカード利用者や加盟店の実態を深く理解し、信頼を得ることに努めました。
そうして半年ほど経った頃、流れが変わり始めたといいます。
松本氏:インドでの加盟店開拓とは、POSを置いてもらう加盟店を増やすことですが、加盟店からすれば正直なところ、どのPOSを置いてもいいわけです。選ぶ基準は、「料率がいい」「手数料が安い」「アフターサービスがいい」「ブランド」「壊れない」などです。
しかし、ある時「加盟店が選ぶ基準って、本当に機能とお金だけなのかな?」という話になったのです。
「加盟店は端末だけで優劣を決めているのではない。『自分たち加盟店のことを一番大事に思ってくれるソリューションを提供する銀行・カード事業』が選ばれるはずだ」と考えました。
それから『アフターデジタル』を参考に「加盟店ジャーニーを考えてみよう」となったのです。
「加盟店ジャーニー」が、インド人メンバーの熱量を引き出した
松本氏:私たちは、近所のタバコ屋や雑貨屋といった加盟店が、一日の商いの中でどのような行動をとっているのか、ジャーニーとして可視化しました。インド人に「これで合ってる?」と実際に聞きながら、ジャーニーのブラッシュアップを重ねました。
そうして、私たちがデジタルで提供できているものと、できていないものが何かを議論して、足りないところをリアル・デジタル問わず、どんどん商品・サービス化していくことになりました。
そこからはすごかったです。インド人は「これだ」と言った瞬間、もう作っている。加盟店への検証もいつの間にか行なっていて、良いと言われたらローンチすると決め、すぐ進めている。すごい実行力とスピード感でした。
――松本氏は「(加盟店の一日の商いの行動を)ジャーニーで伝える」が、インド人の文化にマッチしたのだと考察します。
松本氏:商品をどうやって開発し、提供するかはあくまでパーツであり手段です。それを何のためにやるかと言ったら、最終的には、「加盟店が笑顔になるため」です。それをやれば自ずと我々の端末も売れる、というストーリーを現地のインド人メンバーに伝えました。
そこで学んだのは、インド人は「物語」が好きということです。
仏教や歴史など、物語が生活の中にあります。だから物語で話すとすぐ腹落ちしてくれます。反対に、テクノロジーを「How(どうやってやるか)」で断片的に切り取ると全く興味を示してくれず「Why(なぜそれが必要なのか)」まで理解してもらえませんでした。
――この考察から、藤井は『アフターデジタル』の観点でこう解釈します。
藤井:インドは、日本の比ではないスピード感ですね。
アフターデジタル時代のビジネスに欠かせない、すぐ作ってすぐ持っていくというアジャイル的な体制と能力は、すでにインド現地にあったわけです。非常に高い実装能力がインドの強みであると。
一方で、加盟店ジャーニーという全体像を捉えつつ、今あるものと足りないものを整理し、足りない機能を日立の技術で新たに作るという、「企画・構想力」は日本の強みです。この両者の強みがガツンとハマったというわけですね。
国が違えば、商習慣や固定観念、持っている情報も違い、ビジネスやテクノロジーへの考え方にも偏りが生まれます。
これはいくらコミュニケーションをとっても合わないことも多いです。
ですが、「ユーザ観点から見たときにこうだよね」という話は共通言語になるのです。「お客様はこう行動していて、ここで困っているよね」というのは万国共通で伝わります。
日本の「構想力」とインドの「実装力」の融合
――このプロジェクトから生まれた画期的なサービスの一つに、加盟店への「現金デリバリー(集金・配金)」があります。
キャッシュレス市場で戦うにもかかわらず、あえて現金を扱うビジネスを展開した背景にあるのは、日立ペイメントサービスが誇るATM事業の存在でした。
松本氏:ビジネスはコア事業を守りつつ、時代に合わせていく必要がある。
それならば、我々のATM事業も、キャッシュレス・デジタル市場に向けて、POS事業の加盟店開拓にも使おうと思いました。
そこで加盟店ジャーニーを見直した時に、唯一提供できていなかったのは「レジのお金の管理」だったのです。そこは加盟店任せでした。
加盟店の従業員は、夕方になると店頭に「不在」の札を出し、銀行に現金を預けに行きます。不在時間は休憩も含めて1時間以上。我々はそこに目をつけました。本当は「デリバリー(集金・配金)」してほしいのではないか、と。
見渡すと、現金を運んでくれるPOSサービス会社は他にありませんでした。
これであれば既存のATM事業にも効果が出るし、デジタル事業において加盟店開拓の武器にもなる。これが決定的な、誰も埋めていなかったカスタマージャーニーのポイントだと気づき、「やろう」となったのです。
――このアイデアは、日立ペイメントサービスの現地社員がコロナ禍で展開していた「移動ATM」から着想を得たといいます。
インドには、ATMのために毎日10km歩かなければならない地域が数多く存在します。
日立ペイメントサービスはコロナ禍、パン屋の移動販売のような気軽さで、軽トラックの荷台にATMを積み、お金を下ろせない地方の田舎へデリバリーしていました。
松本氏は当時、その様子を写真で見たとき、インド人の実行能力に膝を打ち「これこそイノベーションだ」と衝撃を受けたと言います。
インド人にしかできない発想だと気づき、加盟店への「現金デリバリー」事業も可能だと直感したのでした。
松本氏:ATM事業では、修理担当が常にバイクや車で巡回しています。そのチームや担当者が、加えて現金の集金や配金もする。それをデジタルでシステマティックにして、フィジカルなセキュリティ面も万全にして新しく構築し直しました。
インドにはもともと「ジュガード(Jugaad)」という精神があるのです。「あるもので工夫してやりなさい」という考え方です。
この「現金デリバリー」も、我々がもともと持っているものから生まれた発想です。
私はこれこそがイノベーションの本質ではないかと思っています。
――藤井はこの話から『アフターデジタル』で伝えたことを踏まえてこう分析します。
藤井:「お金がない」「技術が足りない」と諦めるのではなく、「あるものでなんとかする」というのは大事ですよね。
「現金デリバリー」も、複雑な技術ではなく「誰がどこにいるか」がわかれば実現できることです。
デジタルというと、デジタル前提でどう体験を作るかと考える人がいますが、それではうまくいきません。社会の変化に適応する形で、リアルだろうがデジタルだろうが関係なく、お客様の困りごとを解決してバリューを提供することが本質です。
松本さんは、まさに私が『アフターデジタル』で書いたことをビジネスで体現されているなと思います。
まとめ:泥臭いプロセスの先に宿る、テクノロジーの真価
――対談が終わりに近づき、二人はインドの日立ペイメントサービスの取り組みから得られた知見を『アフターデジタル』の観点から次のようにまとめました。
藤井:加盟店ジャーニーを描き、足りていない機能やペイン(悩み)を可視化し、リアル・デジタル関係なく、ビジネスの大小問わずやっていく。日本人の「企画・構想力」とインド人の「実装力」の組み合わせで、アジャイルで実現していく。
松本氏:その素地に「ジュガード精神」と「ストーリーが響く」というインドの特性がある。
私は、今回の経験を通し、インド人は本当に「顧客志向」だと学びました。顧客志向であるということは、短期的ではなく長期的な視点でつきあうということです。この「ロングターム・リレーションシップ」こそが、顧客志向の極みではないかと思います。
さらに、自分たちのユニークさを理解して、ないものを欲しがらず、あるものの中で、知恵を使って代替すること。インドでの決済‐サービス事業を通して、グローバルな経営のあり方を学ばせていただきました。
――松本氏はインドでの任期を終えて日本に帰国し、現在は社会プラットフォーム営業統括本部のトップである統括本部長として、新たな任務に就かれています。
社会インフラの変革という大きなテーマの中で、これまでの知見が今後の活動にどうつながっていくのか——。
対談の最後にそのお考えを聞きました。
松本氏:デジタルで一番変えたいのは「運用」です。
一般的に「運用」は地味でコストセンターだと思われがちで、そこに切り込むためには時間がかかります。
米農家に例えるなら、靴を脱ぎ、一緒に田んぼに入って耕さないと、ノウハウはわかりません。
米の作り方がわからないのに、「ドローン(テクノロジー)を飛ばせば効率化できますよ」と他所から言うのは、簡単で、都合が良すぎると思うのです。ドローンというテクノロジーを使うのは最後でいい。
「泥臭いプロセス」があってこそ、テクノロジーはその真価を発揮するのだと思います。
私は、社会プラットフォーム営業統括本部という社会インフラ領域のお客様をデジタルで支えるという事業の新たなミッションの中で、インドでの金融決済サービスの加盟店開拓事業で学んだような、泥臭くもみえる運用を含めたビジネスプロセスのすべてに関わり、デジタルとアナログのハイブリッドで新たな価値を生み出すことで、お客様とともに長期的に社会インフラの未来を切り拓いていきたいと考えています。
<対談話者>
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- 松本 直彦 氏(まつもと なおひこ)
- 1997年、株式会社日立製作所入社。以降20年以上にわたり、国内の金融機関中心としたアカウントセールスに従事。
2020年よりインドにおけるデジタル決済サービス事業の立ち上げ・拡大に関与し、2022年から現地に赴任。
インドの決済サービス市場の現場に深く入り込み、ユーザ視点に基づく事業変革を推進した。
インドで見出したイノベーションの本質を胸に、2025年4月より現職。通信事業者向けアカウントセールスの責任者として、新たな価値創出に取り組んでいる。
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- 藤井保文(ふじい やすふみ)
- 東京大学大学院修了。
上海・台北・東京を拠点に活動。国内外のUX思想を探究し、実践者として企業・政府へのアドバイザリーに取り組む。
AIやスマートシティ、メディアや文化の専門家とも意見を交わし、人と社会の新しい在り方を模索し続けている。
著作『アフターデジタル』シリーズ(日経BP)は累計22万部。最新作『ジャーニーシフト』では、東南アジアのOMO、地方創生、Web3など最新事例を紐解き、アフターデジタル以降の「提供価値」の変質について解説している。